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50話 その頃の2人

last update Last Updated: 2025-02-23 09:09:14

 イレーネがマダム・ヴィクトリアの店を出たのは15時を過ぎていた。

「まぁ……もう、こんな時間だったのね。どうりでお腹が空いたはずだわ」

祖父の形見である懐中時計を見ると、イレーネはため息をつく。

「どうしましょう……このままマイスター家に戻っても、夕食までは程遠いわね。それにしても試着するだけなのに、こんなに体力を使うとは思わなかったわ」

1日2食の生活は慣れていた。ただ、今回は慣れない試着作業でお腹を空かせてしまっていたのだった。

「何処かで軽く食事を済ませてからマイスター家に戻ったほうが良さそうね。何か食べるものを用意して下さいなんて言ってご迷惑をかけるわけにはいかないし」

本来であれば、イレーネはルシアンの内定の妻。リカルドに軽食の要望を伝えれば、すぐにでも食事を用意してもらえる立場に自分があることを理解していなかったのだ。

「さて、今度は食事が取れるお店を探そうかしら」

そしてイレーネは鼻歌を歌いながら、マダム・ヴィクトリアの店を後にした――

****

16時半――

「……はぁ〜……」

書斎で仕事をしていたルシアンがため息をつく。

「ルシアン様、またため息ですか? 既に7回目になりますよ? お茶でも飲まれてはいかがですか?」

ルシアンにお茶を勧めるリカルド。

「リカルド……」

「はい、何でしょうか?」

「お前は何回俺に茶を飲ませようとする? もうすでに5回目になるぞ?」

恨めしそうな目でリカルドを見る。

「やはり……おひとりで行かせるべきではなかったのではありませんか?」

その言葉に、ルシアンの肩がピクリと動く。

「一体、何の話だ?」

「とぼけないで下さい、イレーネさんのことですよ。あの方のことが心配で、仕事もろくに手がつかないのではありませんか? 先程から同じ書類ばかり目を通されていますよ」

「ち、違う! 書類を見直していただけだ!」

リカルドに指摘され、慌ててルシアンは書類を取り替える。

「全く、ルシアン様は素直になれないお方ですね……正直にイレーネさんのことが心配だと言えばよいではありませんか? だから本日は外出せずに、こちらでお仕事をされているのですよね? 昼食の時間も心、ここにあらずといった様子でしたし」

するとルシアンも言い返す。

「そういうお前こそ、イレーネ嬢のことが心配でたまらないのではないか? 今日は用もないのに、何度もエントランスまで
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     ルシアンが取引を行っている大企業が開催するレセプションの日がとうとうやってきた。タキシード姿に身を包んだルシアンはエントランスの前でリカルドと一緒にイレーネが現れるのを待っていた。「ルシアン様、いよいよ今夜ですね。初めて公の場にイレーネさんと参加して婚約と結婚。それに正式な次期当主になられたことを発表される日ですね」「ああ、そうだな……発表することが盛り沢山で緊張しているよ」「大丈夫です、いつものように堂々と振る舞っておられればよいのですから」そのとき――「どうもお待たせいたしました、ルシアン様」背後から声をかけられ、ルシアンとリカルドが同時に振り返る。すると、濃紺のイブニングドレスに、金の髪を結い上げたイレーネがメイド長を伴って立っていた。その姿はとても美しく、ルシアンは思わず見とれてしまった。「イレーネ……」「イレーネさん! 驚きました! なんて美しい姿なのでしょう!」真っ先にリカルドが嬉しそうに声を上げ、ルシアンの声はかき消される。「ありがとうございます。このようなパーティードレスを着るのは初めてですので、何だか慣れなくて……おかしくはありませんか?」「そんなことは……」「いいえ! そのようなことはありません! まるでこの世に降りてきた女神様のような美しさです。このリカルドが保証致します!」またしても興奮気味のリカルドの言葉でルシアンの声は届かない。(リカルド! お前って奴は……!)思わず苛立ち紛れにリカルドを睨みつけるも、当の本人は気付くはずもない。「はい、本当にイレーネ様はお美しくていらっしゃいます。こちらもお手伝いのしがいがありました」メイド長はニコニコしながらイレーネを褒め称える。「ありがとうございます」その言葉に笑顔で答えるイレーネ。「よし、それでは外に馬車を待たせてある。……行こうか?」「はい、ルシアン様」その言葉にリカルドが扉を開けると、もう目の前には馬車が待機している。2人が馬車に乗り込むと、リカルドが扉を閉めて声をかけてきた。「行ってらっしゃいませ、ルシアン様。イレーネさん」「はい」「行ってくる」こうして2人を乗せた馬車は、レセプション会場へ向かって走り始めた。「そう言えば私、ルシアン様との夜のお務めなんて初めての経験ですわ。何だか今から緊張して、ドキドキしてきました」イレーネ

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    「こちらの女性がルシアンの大切な女性か?」イレーネとルシアンが工場の中へ入ると、ツナギ服姿の青年が出迎えてくれた。背後には車の部品が並べられ、大勢の人々が働いていた。「え?」その言葉にイレーネは驚き、ルシアンを見上げる。しかし、ルシアンはイレーネに視線を合わせず咳払いした。「ゴホン! そ、それでもう彼女の車の整備は出来ているのだろうな?」「もちろんだよ。どうぞこちらへ」「ああ、分かった。行こう、イレーネ」「はい、ルシアン様」青年の後に続き、イレーネとルシアンもその後に続いた。「どうぞ、こちらですよ」案内された場所には1台の車が止められていた。何処か馬車の作りににた赤い車体はピカピカに光り輝いており、イレーネは目を輝かせた。「まぁ……もしかしてこの車が?」イレーネは背後に立つルシアンを振り返った。「そう、これがイレーネの為の新車だ。やはり、女性だから赤い車体が良いだろうと思って塗装してもらったんだ」「このフードを上げれば。雨風をしのげますし、椅子は高級馬車と同じ素材を使っていますので座り心地もいいですよ」ツナギ姿の男性が説明する。「ルシアン様の車とはまた違ったデザインの車ですね。あの車も素敵でしたが、このデザインも気に入りました」イレーネは感動しながら車体にそっと触れた。「まだまだ女性で運転する方は殆どいらっしゃいませんが、このタイプは馬車にデザインが似ていますからね。お客様にお似合いだと思います」「あの、早速ですが乗り方を教えてください!」「「え!? もう!?」」ルシアンと青年が同時に驚きの声をあげた――**** それから約2時間――「凄いな……」「確かに、凄いよ。彼女は」男2人はイレーネがコース内を巧みなハンドルさばきで車を走らせる様を呆然と立ち尽くしてみていた。「ルシアン、どうやら彼女は車の運転の才能が君よりあるようだな?」青年がからかうようにルシアンを見る。「あ、ああ……そのようだ、な……」「だけど、本当に愛らしい女性だな。お前が大切に思っていることが良くわかった」「え? な、何を言ってるんだ?」思わず言葉につまるルシアン。「ごまかすなよ。お前が彼女に惚れていることは、もうみえみえだ。女性が運転しても見栄えがおかしくないようなデザインにしてほしいとか、雨風をしのげる仕様にして欲しいとか色々

  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   131話 ルシアンからの褒美

     10時――イレーネは言われた通り、丈の短めのドレスに着替えてエントランスにやってきた。「来たか、イレーネ」すると既にスーツ姿に帽子を被ったルシアンが待っていた。「まぁ、ルシアン様。もういらしていたのですか? お待たせして申し訳ございません」「いや、女性を待たせるわけにはいかないからな。気にしないでくれ。それでは行こうか?」早速、扉を開けて外に出るとイレーネは声を上げた。「まぁ! これは……」普段なら馬車が停まっているはずだが、今目の前にあるのは車だった。「イレーネ、今日は馬車は使わない。車で出かけよう」「車で行くなんて凄いですね」「そうだろう? では今扉を開けよう」ルシアンは助手席の扉を開けるとイレーネに声をかけた。「おいで。イレーネ」「はい」イレーネが助手席に座るのを見届けると、ルシアンは扉を閉めて自分は運転席に座った。「私、車でお出かけするの初めてですわ」「あ、ああ。そうだろうな」これには理由があった。ルシアンは自分の運転に自信が持てるまでは1人で運転しようと決めていたからだ。しかし、気難しいルシアンはその事実を告げることが出来ない。「よし、それでは出発しよう」「はい、ルシアン様」そしてルシアンはアクセルを踏んだ――****「まぁ! 本当に車は早いのですね? 馬車よりもずっと早いですわ。おまけに少しも揺れないし」車の窓から外を眺めながら、イレーネはすっかり興奮していた。「揺れないのは当然だ。車のタイヤはゴムで出来ているからな。それに動力はガソリンだから、馬のように疲弊することもない。きっと今に人の交通手段は馬車ではなく、車に移行していくだろう」「そうですわね……ルシアン様がそのように仰るのであれば、きっとそうなりまね」得意げに語るルシアンの横顔をイレーネは見つめながら話を聞いている。その後も2人は車について、色々話をしながらルシアンは町の郊外へ向かった。****「ここが目的地ですか?」やってきた場所は町の郊外だった。周囲はまるで広大な畑の如く芝生が広がり、舗装された道が縦横に走っている。更に眼前には工場のような大きな建物まであった。「ルシアン様。とても美しい場所ですが……ここは一体何処ですか?」「ここは自動車を販売している工場だ。それにここは車の運転を練習するコースまである。実はここで俺も

  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   130話 諦めるリカルド

     翌朝――イレーネとルシアンはいつものように向かい合わせで食事をしていた。「イレーネ、今日は1日仕事の休みを取った。10時になったら外出するからエントランスの前で待っていてくれ」「はい、ルシアン様。お出かけするのですね? フフ。楽しみです」楽しそうに笑うイレーネにルシアンも笑顔で頷く。「ああ、楽しみにしていてくれ」ルシアンは以前から、今日の為にサプライズを考えていたのだ。そして直前まで内容は伏せておきたかった。なので、あれこれ内容を聞いてこないイレーネを好ましく思っていた。(イレーネは、やはり普通の女性とは違う奥ゆかしいところがある。そういうところがいいな)思わず、じっとイレーネを見つめるルシアン。「ルシアン様? どうかされましたか?」「い、いや。何でもない。と、ところでイレーネ」「はい、何でしょう」「出かける時は、着替えてきてくれ。そうだな……スカート丈はあまり長くないほうがいい。できれば足さばきの良いドレスがいいだろう」「はい、分かりましたわ。何か楽しいことをなさるおつもりなのですね?」「そうだな。きっと楽しいだろう」ルシアンは今からイレーネの驚く様子を目に浮かべ……頷いた。****「リカルド、今日は俺の代わりにこの書斎で電話番をしていてもらうからな」書斎でネクタイをしめながら、ルシアンはリカルドに命じる。「はい。分かりました。ただ何度も申し上げておりますが、私は確かにルシアン様の執事ではあります。あくまで身の回りのお世話をするのが仕事ですよ? さすがに仕事関係の電話番まで私にさせるのは如何なものでしょう!?」最後の方は悲鳴じみた声をあげる。「仕方ないだろう? この屋敷にはお前の他に俺の仕事を手伝える者はいないのだから。どうだ? このネクタイ、おかしくないか?」「……少し、歪んでおりますね」リカルドはルシアンのネクタイを手際良く直す。「ありがとう、それではリカルド。電話番を頼んだぞ」「ですから! 今回は言われた通り電話番を致しますが、どうぞルシアン様。いい加減に秘書を雇ってください! これでは私の仕事が増える一方ですから」「しかし、秘書と言われてもな……中々これだと言う人物がいない」「職業斡旋所は利用されているのですよね? 望みが高すぎるのではありませんか?」「別にそんなつもりはないがな」「だったら、

  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   129話 待つ2人

    「イレーネ……随分、帰りが遅いな……」ルシアンはソワソワしながら壁に掛けてある時計を見た。「ルシアン様、遅いと仰られてもまだ21時を過ぎたところですよ? それに一応成人女性なのですから。まだお帰りにならずとも大丈夫ではありませんか? 大丈夫、きっとその内に帰っていらっしゃいますから。ええ、必ず」「そういうお前こそ、心配しているんじゃないか? もう30分も窓から外を眺めているじゃないか」ルシアンの言う通りだ。リカルドは先程から片時も窓から視線をそらさずに見ていたのだ。何故ならこの書斎からは邸宅の正門が良く見えるからである。「う、そ、それは……」思わず返答に困った時、リカルドの目にイレーネが門を開けて敷地の中へ入ってくる姿が見えた。「あ! イレーネさんです! イレーネさんがお帰りになりましたよ!」「何? 本当か!?」ルシアンは立ち上がり、窓に駆け寄ると見おろした。するとイレーネが屋敷に向かって歩いてくる姿が目に入ってきた。「帰って来た……」ポツリと呟くルシアン。「ほら! 私の申し上げた通りではありませんか! ちゃんとイレーネさんは戻られましたよ!?」「うるさい! 耳元で大きな声で騒ぐな! よし、リカルド! 早速お前が迎えに行って来い!」ルシアンは扉を指さした。「ルシアン様……」「な、何だ?」「こういうとき、エントランスまで迎えに行くか行かないかで女性の好感度が変わると思いませんか?」「こ、好感度だって?」「ええ、そうです。きっとルシアン様が笑顔で出迎えればイレーネさんは喜ばれるはずでしょう」「何だって!? 俺に笑顔で出迎えろと言うのか!? 当主の俺に!?」「そう、それです! ルシアン様!」リカルドが声を張り上げる。「良いですか? ルシアン様。まずは当主としてではなく、1人の男性としてイレーネさんを出迎えるのです。そして優しく笑顔で、こう尋ねます。『お帰り、イレーネ。今夜は楽しかったかい?』と」「何? そんなことをしなくてはいけないのか?」「ええ、世の男性は愛する女性の為に実行しています」そこでルシアンが眉を潜める。「おい、いつ誰が誰を愛すると言った? 俺は一言もそんな台詞は口にしていないが?」「例えばの話です。とにかく、自分を意識して欲しいならそうなさるべきです。では少し練習してみましょうか?」「練習までしな

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